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若き日の隠居 電話の形がレトロ
創業時の隠居
隠居プロフィール
大正15年
富山県宇奈月に生まれる。
昭和4年10月 
雨龍郡沼田村の炭坑社宅へ転居。
昭和13年   
宮城県仙台市仙台1中入学のため
単身叔母宅へ預けられた。
昭和19年   海軍兵学校へ入校
昭和20年   終戦のため帰郷
その後転職する事、数回友人と共に店舗設計・内装業を興し、その一環として昭和38年12月地雷也を設立した。

平成15年10月逝去
隠居の独り言 その@
魚市場で雑魚の相場を吊り上げた「地雷也」
私は三歳から十二歳迄の幼時を北海道の炭山で育った。其の炭山は日本海の漁港留萌から直線で20キロ東に入った山中に在った。春になると会社では貨車一両の鰊「にしん」を購入して社宅の社員に配分した。母親達は一斉に鰊を開いて家の周囲に茣蓙を敷いて開いた鰊を並べて干した。此の際身欠き鰊を作るのだが、一干しの鰊を炭火で焼くと脂が浮いて美味しかったのが未だに忘れられない。当時は冷凍技術が劣悪で、遠方に運ぶ際は氷詰めが最高で、後は塩漬けにした塩鰊と、水分を完全に抜いた「身欠き鰊」即ち(乾燥鰊)で京都の鰊蕎麦は、身欠き鰊又は塩鰊を上手に戻して生鰊の風味を出して料理したのが関西では珍しい食材として珍重された物でしょう。当時の北海道では鰊が大量に水揚げされると大漁貧乏で、海浜に干してある鰊は猫も食い飽きて食べなくなるので、「猫またぎ」と云われた事もある。大東亜戦争中は漁師が戦争に駆り出されて人出が無くて鰊漁が中断されていた為に敗戦後は鰊の大漁が続き、主食の米が不足した事もあり主食の代わりに配給された事もあった。仙台では、生鰊を「カド」と言い塩鰊を「ニシン」と云っていた様だ。
地雷也を開店した昭和38年頃は、数の子が海のダイヤと言われて珍重されていた時代だ。生で丸ごと串刺しにして焼いて提供する食材故に、見た目には雄雌の区別が付かぬのが面白く、但し何れにしても50%の確率で雌に当たる。雌に当たると数の子が食べられる。雄の持っている白子も夫れなりに美味しいのだが、何せ「海のダイヤ」と云われた時代故に、数の子に当たったお客様は、何となく得をした気持ちになり喜んで下さった。又白子に当たったお客さんは、次回を楽しみにお帰りになるのも一つの話題性が有って面白かった。斯くして雑魚の扱いを受けていた鰊の売れ行きが良くなり相場を吊り上げたと言われている。
隠居の独り言  そのA
「きんき」と笹蒲鉾
「「隠居の独り言その1」 でご紹介しましたが、昭和13年に北海道の山の中から大都会の仙台に出て来ました。
其の頃、近所の魚屋では店の表に炉を造って、おかみさんが魚の「すり身」を平たい竹串にペタペタ叩いて木の葉型に形を整えた「すり身」を炉の炭火にかざして焼いて居るのを見掛けました。この風景は仙台市内殆どの魚屋の店先で見られたものです。之が仙台名物「笹蒲鉾」の原点でした。
話によりますと、仙台近海は大陸棚(200メートル未満の沿海)で獲れる鰈や平目のトロール漁が主体で、之等の鰈や平目は刺身材料として高価に販売出来ました。その網の中に一緒に入る魚は雑魚(ザコ)と言われ邪魔者扱いでした。「きんき」(吉次とも言う)も其の雑魚の仲間で、頭ばかり大きくて身が少なく食べる処が無いと言って嫌われていたのですが、魚屋の店では少ない身でも捨てるに忍びず骨を抜いて身をすり身にして「蒲鉾」として販売しました。その形が笹の葉型のところから「笹蒲鉾」とるようになりました。現在閖上方面では「手のひら蒲鉾」とも称しています。「地雷也」創設当時は鰊を焼いて提供し、当時は「海のダイヤ」と言って貴重な食品と言われた「数の子」が入っている確率が50%と言う処から焼き上がった鰊に「数の子」が有ると歓声を上げて喜び、白子が当たったお客様は次を楽しみにする等の話題性が有りました。その内に鰊の他に安い素材を探していましたら「きんき」に行き当たりました。美味しい「笹蒲鉾」の材料ですから「きんき」の焼き魚も美味しい筈と思い比較的大きめで身の厚良い「きんき」を炭火で焼いてみましたら其の脂の乗った身の旨さを発見しました。
更に食べた後の頭や骨を単に捨てるのは勿体ないとの発想が生まれ、味を付けてスープにしましたら、白炭の炎から出る遠赤外線効果でしょうか、得も言われぬ風味のあるスープになりました。お陰で現在地雷也の目玉商品となって皆様にご好評を頂いて居ります。因みに、之を真似て「きんき」のスープを提供している店を訪ねて味見をしましたが、炭火を使わぬスープには此の旨味を出すのが難しいと知りました。
炭火を使って焼き物をするには、私共の炉の大きさが最低限ですが、現在の建築法で店内に之れ程の炉を構築するのは大変難しいと聞いております。この特性を生かして精一杯美味しい焼き物料理を皆様に提供して喜んでいただきたく日々研究と努力を致して居ります。
隠居の独り言 そのB
地雷也のメニュー物語(お袋の味とボリューム)
私は大正末期に生まれ、五ヶ月目に昭和を迎えたので、64年間に亘り昭和と共に生きて参りました。
昭和7年満州事変 昭和12年支那事変 昭和16年大東亜戦争と、幼児期から青年に至る迄戦争の最中に育ち、 中学校時代は「愛国少年」として国を守る為に一身を捧げる積もりで海軍の軍人を目指して江田島の海軍兵学校を受験し、難関を突破して入校したが、在校十ヶ月で終戦を迎え郷里に帰った。
大学進学を諦め、海軍仲間と仙台市内の飲食店の美化と近代化を目的とした店舗内装設計施工会社を設立した。その間に「地雷也」のアイデアが有ったが、此のアイデアを買うお客が無かった。折角のアイデアだから吾々の副業としてやってみよう!との合意で「地雷也」を設立して、敗戦後の食糧難の時代を乗り越えてきた昭和38年末「地雷也」は開店した。三十代後半の吾々の味覚は、「お袋の味」である。又此の年代で健康な吾々の食欲は旺盛だ。地元仙台は海・山・畑の物。凡ての新鮮な食材が容易に入手出来る。戦中戦後の食糧難の後遺症? 旨い物を腹一杯安く食べられるメニューを考えた。炭火の炉を築き地元の食材を串刺しにして焼く趣向だ。店の造りは田舎家風で、炭火を焚く炉端で串刺しの魚を焼く風情を醸し出した。
夫れを其の儘40年間継続して今日に到っている。現在の私の腹には納まり切れぬボリュームだが、ご来店のお客様は働き盛りの壮年。ボリュームが多すぎるとの苦情は未だ耳に入らない。
「宍魚五菜皆喰らう可し」の看板通り串刺しの食材を蔵王の白炭で焼くのだが、宍 即ち牛肉を焼く際脂が落ちて燃えるのではないか?と心配したが、焼いてみると 脂は落ちるどころか脂が肉の中に吸収されてゆくのが見られた。之が肉の旨味となっているのだ。当初は水槽を置いて川魚を泳がせ網で掬って活きた鮎を頭から食べる「躍り食い」や食用蛙等も提供して人目を引き、お客様の評判を呼んだ時期もあった。
隠居の独り言 そのC
商道徳
私は最初から隠居ではありません(当然の事)
祖国を守る為に大東亜戦争に参加して 親兄弟を守る為にこの身を捨てても惜しくない。との覚悟が実感として出来たが軍人になって(卵?)一年足らずで終戦を迎えて帰郷した。船乗りとしての基本常識を教えられ、基礎体力を鍛えられた他は英語を含む一般教養学科を学んだのみである。帰郷した仙台市の自宅は焼け野原となっていて、近郊の田舎家の一部屋に家族七人が雑居していた。敗戦国の軍人の卵は自立する術を知らない。伝手を頼って計理士事務所(今はなくなり税理士又は公認会計士となった)の事務員として雇われ「勉強するための本は書棚に一杯有るから自由に読みなさい」と先生に言われ、事務所の雑用の合間に独り立ちの勉強を始めた。
その後、経理事務の経験(初歩)を買われて電球製造会社、石鹸製造会社、明治屋と転々としたが、明治屋の上司に誘われて米軍相手の新鮮食料品店 即ち和牛・清浄野菜・鶏卵等を販売する店を青森県の三沢で開業。その後製菓原料販売、菓子卸販売、こけし製造販売等を経験した。その中で学んだ事は、商品を販売するのは自己の「信用」を売り込む事と知った。
先日地雷也の取引先の魚屋から独立した者から売り込みがあって、店長が馴染みの顔を立てて少量の品を購入した。
隠居は「以前勤務した取引先の了解を取ったのか?」と尋ねたら「否」と言うので直ちに前の勤務先に連絡して了解を取る様指示した。之が商取引の基本道徳であり信用なのだと教えた。店のお客様に応対する者はお客様の気持ちを汲んで「痒いところに手の届く様な」応対を大事にするのは勿論だが、店の商品を供給してくれる取引先を大切にするのも店の信用を高め、より良い食材を供給してくれる基となるのだ。
隠居の独り言 そのD
新券釣り銭物語
大東亜戦争終戦直後の新聞記事に「お札にアイロンを掛けるたばこ屋のお婆さん」の見出があった。
記事を読んでみると、『荒廃した都会に住んでいる人達が「皺クチャ」のお札を持って煙草を買いに来るが、せめてお釣り銭は「ピン札」を上げて明るい希望を持って欲しいとの気持ちで、皺になったお札にアイロンを掛けて皺を伸ばしているのです』との事であった。この記事は若い頃の隠居の心に残る暖かい記事であった。之を見習ってご来店のお客に感謝の気持ちを込めて新券でお釣りを差し上げる努力をしている。其の気持ちを汲んでくださるお客様があると思われ、新券で御飲食代を支払うお客様が増えています。
隠居の独り言そのE
お袋の味
現代の皆さんは「お袋の味」を覚えていらっしゃいますか?
皆さんの味覚は、学校給食が始まってから、お弁当を持たずに学校に行くようになった。
その為「お袋の味」は「ハンバーグ」等と言われた事も有ります。
私共の世代では、朝食前にお袋が子供の好む料理を考え、時間を掛けて弁当箱に詰めてくれたのです。その中にはお袋の作った卵焼きの入った弁当を持ってくる友達の弁当箱を覗いて涎を流す者も多かったと思います。
普段の夕食のお膳には焼き魚と煮物が列んでいました。焼き魚はその節に合った近海の魚、(鰈・さんま・吉次・鰊・目抜け・鰺の干物……)を七輪の炭火で美味しい匂いを近所に広げ乍ら焼いて父親がフーフー言いながら子供に身を骨から剥がして食べさせる風景もありました。煮物は(芋の煮っ転がし・大根の煮物……)季節の野菜をふんだんに使った煮物が大半で、肉の入った煮物は贅沢な煮物として喜ばれたが、夫れ々々の家に昔から姑が嫁に教え伝えた独特の味が有りました。山形の「芋煮会」等も其の一つでしょう。食卓の味も、弁当の味も総て「お袋の味」で育ってきた我々の世代には忘れられない味です。
隠居の独り言 そのF
商道徳(2)
以前 (其の4)で信用を大事にすると述べたが、最近読んだ書物の中に次の様な文章があったので引用する
御朱印船の時代角倉素庵と言う朱子学を学んだ貿易商が「船中規約」と言う、外国貿易の心得を決めた規約の第一条に
「およそ回易のことは、有無を通じて人と己を利するなり。人を損じて己を益するに非ず。利を共にするは小なりといえども還って大なり。利を共にせざるは大なりといえども還って小なり。いうところの利は義の嘉会なり。故に曰く、貪賈はこれを五とし、廉賈はこれを三とすと。思うべし」とある。「利は義の嘉会なり」の嘉会とは「優れて立派なものの集まり」又は「目出度い巡り合わせ」であり、利は道理、条理、正しい道に従うことによって生まれると解され、「利を争うは理を争う」ことなのである。貪欲な商人は五の利益を求め、清廉な商人は三の利益に止めるのである。
この心得を読んだ際、「こけし」を購入して下さった大阪の商人。[現在は「千趣会」会長]からお聞きした話
「大阪商人は仕入の際値切るが、肌着は残す。名古屋の商人は、肌着まで剥がして仕舞うから気い付けや!」と
此のご忠告は未だに身に沁みて取引の心掛けとして、大事に実践しています。
お客様には十分納得して頂くことの出来る料理を提供し、お代価はお客様が「やすい!」とお感じになる価格に設定してあるつもりです。
又仕入先には、お客様に少しでもお安く提供出来る様な値段を要求しますが、裸にするような値切り方は致しません。従って良い食材を安く供給して下さる仕入先との取引はここ四十年変わらず続いて居ります。

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最終更新日Apr 9, 2005